フェア• ソ連の社会主義はすでにレーニン時代から収容所体制に支えられていたという立場から、著者は共産主義イデオロギーを完膚なきまで糾弾し、それがいかに人間をゆがめるかを論ずる。
3愛知学院大学准教授 1969年、名古屋市生まれ。
これを発案したのは、後にNKVD(内部人民委員部)、KGBと連なる組織の元祖チェーカー(反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会)のトップ、ジェルジンスキーである。
「いいちばんしたたかなニセ患者までもが、数時間のうちにドアをたたいて、ここから出してくれと言うのだった」。
『グラーグ』は、そのソ連の強制収容所(グラーグ)の歴史を、最初から最後までたんねんに追った本だ。
それに、「収容所群島」は文学作品で、ソルジェニーツィンが体験したこと、見聞きしたことを中心に書いている。
このようにして、 機関は絶対に過失をしないという伝統が確立した。
スターリンの人気が高く、花束が一番多いのには驚いた。
この温度になると吐く息の中の水蒸気が凍ります。 コルネーエワは喜んでそれにサインして、秘かに精神的勝利を味わった。 そして、これだけ凄惨で非人間的な装置を利用していた社会主義に対しては何ら批判が行われず、当時それを翼賛していた人は平然と口をぬぐい、各種アイテムがむしろレトロなファッションとして消費されていることに対する著者の批判も重要。
いや、それはまさに取調官の洗練された取調べ技術なのである。 こういう心理は、なんなんだろう? さて、脱走しても、すぐに食料が尽きる。
これを皮切りに、馬鹿が権力を握るとロクな事がない、そう感じさせる記述が本書には何度も出てくる。
どんな者が送られ、どの部署が管轄したのか。
だからこそ収容所「群島」と呼ばれる。
『収容所群島への道 ソルジェニーツィンの愛と苦悩』訳、二見書房、1974年。
【死にざま】 そんな環境だから、囚人は次々と死んでゆく。
しかし、これが何のビルなのか、誰もがみんな知っている。 」 また、グラークは、事実上法律の管轄外にあり、内部は独自のルールが支配していた。 「彼らはのけ者あつかいにされ、共同のコップで水を飲むことをゆるされず、侮蔑の対象となっていた」。
収容所特別裁判所が存在した10年に満たない期間の間に、約20万人に対して有罪判決が言い渡され、その対象は、囚人のおよそ80%にのぼったという。
そんな中でも囚人たちは連絡を取り合おうとする。
強制収容所での労働には、囚人がしなければならないノルマがあった。
『私のソルジェニーツィン 前夫人の回想記《時間との論争》』訳、サイマル出版、1974年。 面積は4倍に拡大した。
20一般の車を押しのけて走るあたり、ソ連時代の悪弊は変わらないようだ。 そしてこのボリューム。
ここではスターリンもミーハーの対象になるようだ。
しかも壁の向うから聞えるものには区別がつかない。